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今昔紫紺蹴球記 第3回明治大学ラグビー部副部長 田中充洋さん (VOL.11)

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今昔紫紺蹴球記
第3回明治大学ラグビー部副部長
田中充洋さん

日本一を目指して練習に取り組む選手の純粋な姿に心を打たれました


経営学部の教授として教壇に立つかたわら、ラグビー部出身者として現在、副部長を務める田中充洋さん。
北島忠治元監督に鍛えられた現役時代や、2年間の監督経験などから得た、ラグビー部への思いを語って頂きました。


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タックルを外されたときに聞こえた北島先生の怒声
明治に入学したのは、高校日本代表に選出されたことがきっかけです。
コーチに斎藤尞さん(元ヘッドコーチ)がいらっしゃって、明治のセレクションを受ける機会を頂きました。
当時の高校日本代表には、平尾誠二(神戸製鋼ラグビー部GM)や土田雅人(サントリーフーズ社長)、東田哲也(ワールド:元日本代表)など、そうそうたるメンバーがいて、皆同志社に進学するという話だったので、正直迷いました。ただ、自分は「FWの強いチームの下でやってみたい」という気持ちもあり、明治を選びました。父親から、「東京の大学じゃないと学費を出してやらない」と言われていたことも大きかったのですが(笑)。
もともと強い高校で揉まれてきたわけでもなかったので、入学してからのすべての出来事が新鮮でした。
入学後はBKの様々なポジションを経験しましたし、とにかくチャレンジさせてもらった4年間だったと思います。
胸を張って言えるほどの経歴はありませんが、2年からは公式戦にも出場し、全明治のNZ遠征にも選んで頂きました。ただ、大きな試合の前にはよくケガをしてしまって……。当時の練習は部内ゲームが中心で、A対B、B対C、C対D、D対E、そして最後に1年対高校生といった具合で、中でもA対Bのゲームは全員がレギュラーを取りたいと思って臨みますから当然激しくて、時には殴り合いのケンカが起こるほどでした。そんな雰囲気の中で、レギュラーに残りたいという焦りもあり、怪我をしていても無理に出てしまい、悪化させ完治が遅れてしまう。そんなことの繰り返しでした。
ただ今になって振り返ってみると、北島(忠治)先生の練習はとても理にかなったものだったと思います。まずは、FWとBKが数人組んでパスを回しながらランニングを繰り返す練習を1時間くらい。これがウォーミングアップ代わりになって、あとはひたすら部内マッチ。ユニットでの練習とゲームでの総合的な練習、いわば分習法と全習法が自然と含まれていました。ただの練習だけだと、どうしても気が抜けてしまって、プレーが甘くなることもあるのですが、ゲーム形式は本当に緊迫感もあり実戦的でした。
北島先生から細かく指導されることはほとんどありませんでしたが、ただ、タックルを外した時だけは、すごく怒られました。
「バカヤローって」(笑)。あとは、「腿(もも)を高く上げて、まっすぐに走れ!」
ということくらいです。また、私は1日の練習ゲームすべてに、ポジションを変えて出されることが度々あり、それがスキルアップになり、指導する上での眼を養うことにも繋がったと思います。

指導者としての経験値を得た筑波大学時代

小さい頃から体育教師になりたいという夢もあって、卒業後は筑波大学に進みました。明治に在籍していた当時は教職の授業も取っていなかったので、イチからのスタートという感じで大変でした。
就職活動解禁日に、北島先生とゼミの教授に紹介して頂いた筑波の先生のもとに足を運んで、「よろしくお願いします」と頭を下げるところから始まって……。生活も、100人の合宿所からアパートでの一人暮らしに変わりました。
同時に、筑波大のラグビー部のコーチを務めたことも、良い経験になりました。当時の筑波には良い選手もたくさんいたのですが、プレーをセルフジャッジして“やりきらない”傾向があって、そうした点を改善できるように指導に当たりました。もともとラグビーを細かく分析することが好きでしたし、指導する立場になって、改めて勉強になることが本当に多かったです。
現在は経営学部の教授として、スポーツ・マネジメント論などの講義を担当しています。その中では球技の文化論やコーチング論、あるいは経営学の視点を取り入れたスポーツ組織の運営などにも言及し、授業を進めています。

強い気持ちの込もった明治らしいプレーを期待

小さい頃から体育教師になりたいという夢もあって、卒業後は筑波大学に進みました。明治に在籍していた当時は教職の授業も取っていなかったので、イチからのスタートという感じで大変でした。職活動解禁日に、北島先生とゼミの教授に紹介して頂いた筑波の先生のもとに足を運んで、「よろしくお願いします」と頭を下げるところから始まって……。生活も、100人の合宿所からアパートでの一人暮らしに変わりました。
同時に、筑波大のラグビー部のコーチを務めたことも、良い経験になりました。当時の筑波には良い選手もたくさんいたのですが、プレーをセルフジャッジして“やりきらない”傾向があって、そうした点を改善できるように指導に当たりました。もともとラグビーを細かく分析することが好きでしたし、指導する立場になって、改めて勉強になることが本当に多かったです。
現在は経営学部の教授として、スポーツ・マネジメント論などの講義を担当しています。その中では球技の文化論やコーチング論、あるいは経営学の視点を取り入れたスポーツ組織の運営などにも言及し、授業を進めています。

強い気持ちの込もった明治らしいプレーを期待

2000年に明大の監督に就任しました。その数年前から、少しずつラグビー部に関わるようになっていましたが、当時は様々な問題が重なり、部員が大人に対して不信感を抱いていて、とても難しい時期でした。私自身、何度も彼らと話し合いを重ね、心を解きほぐすことに力を注ぎました。
うまくいかないことも多かったのですが、選手たちが純粋に日本一を目指して練習する姿には心を打たれました。
特に97年度の主将だった田中澄憲の姿勢は、素晴らしく印象に残っています。遠征に行くと、キャプテンにもかかわらず、ボールやヤカンを率先して運ぶ。1年生にやらせない。練習では先頭を切って走り、余計な言葉を発しない。すごく緊張感のある良い練習をしている。そこを否定することはありませんでした。
その後、各年代の主将が集まった会議やOB会の推薦を経て、当時、大学の助教授だった私が監督を務めることになりました。授業や学務の調整がつかず、主に週末に顔を出すことしかできませんでしたが、金谷福身さん(元日本代表)、鈴木清士君(サントリーOB)、加藤尋久君(現日大ヘッドコーチ)が、コーチとして親身的に指導に当たってくれ、当時の桜井・松原両主将も懸命にチーム再建に努めてくれました。
しかし、ラグビー部は、その頃ちょうど過渡期を迎え、リクルート活動もうまくいかず、プロップの人数が足りない。
8対8のスクラムを組むのにメンバーが揃わないこともしばしばで、内情は相当厳しいものがありました。そうした中で、帝京大や東海大などが学校経営の一翼としてラグビー部の強化を図り、一気に台頭してきました。
明治は、長くその流れに乗れない時期が続きましたが、特に丹羽監督が就任してからは、徐々に体制が整ってきたと思います。ファンの皆様の大学日本一への期待が、年々高まっていることは肌身に感じています。
チームとして、しっかり準備をして、秋からのシーズンに臨んでもらいたいですし、私は副部長として、現場のスタッフや部員が動きやすいように環境を整えることに尽力していきたいと思っています。最後にラグビー部のいちOBとしては、勝敗もさることながら、明治らしいラグビーを見せてほしい。アタック、ディフェンスともに一歩でも前に出る、強い気持ちの込もったプレーを期待します。歴史のなかでも記憶に残るグッドゲームをして、明治のプライドを取り戻してほしいですね。